豊橋のヒーラー  愛のつぶや記


愛することは愛される(受ける)こと

 

  これはある聖者(超有名)の言葉です。

「愛」を「癒やし」に置き換えてみたら?と考えてみました。

 

置き換えてみるとこうなります。

  1,「癒やす事は癒やしを受ける(癒やされる)事」

  2,「愛する事は癒やしを受ける(癒やされる)事」

 

 1,についてはこのサイトの「波動ヒーリング」を参考にして貰えたらと思います。

 2,についてですが、日々の生活の中で動物(ペット)や植物や子供(赤ちゃん)から癒やされる、或いは元気を貰うと言う経験をされていると思います。

 

「愛する事は愛される事」という言葉には続きがあります。

それは「愛を求めるな。愛を与えよ。」です。

これらの言葉は順不同(同時)です。

 とくに2,についてはこれらの言葉を無意識に実践しています。この無意識に実践出来ていることを意識的に日常の様々なシーンで顕すと良いと思います。


どうやって?出来るか出来ないかでは無く「やる」と決める事です。やると決めれば出来ます。

何故なら既に出来ているからです。

 大地真央?さんのCMに「そこに愛は在るんかい?」と言う台詞がありましたが、たまにはそのことを自問自答してみても良いかも??


「私は神である」

 

真理を学び始めてから繰り返し講話を聴き、真理に関連する本を読み、瞑想や日常の過ごし方を通してどう表現すれば本来の自分を自覚出来るのか。
真理を学びはじめた頃最初に言われたのは「私は神、私は愛(生命)だと想うだけですよ」と教えられました。その時は「想うだけで良いのか、簡単なんだ」と思ったんですが、実際にやってみると「ただ想うとは?どんな風に想えば良い?」と、「ただ想う」という単純な事の意味が解りませんでした。
そんなこんなで今現在気付いた事を書いてみます。
自分が神である、と想うのに一番良い(効率的な)方法は素直さ、純粋さだと思います。「私は神である」と純粋(素直)に受容し「感じる」事です。
純粋さ、素直さは無我と同様の意味で、「感じる」は直知、天啓と同義語であり理性や価値観、知識や概念に影響されない思考、意識状態です。
簡単に言えば「幼い子供のように」純粋で素直に、自然に感じるに委ねる状態を維持する事だと思います。
そして受容することは肯定する事であり委ねる事にも繋がり、これの繰り返しが深い理解になっていくんだと思います

幼子という言葉には

 

「純粋(素直に)」と書きましたが、「未熟」「若い」と言う意味で使われることもあります。

理解力で例えれば理性(概念、外念、相対的な価値観、イメージ、一般的な常識)を超えた理解が出来るかが一つの基準となります。
愛で例えればどれだけ純粋(素直)に限定せず(特定の相手にだけではなく)に愛情を表現出来るかです。
その為には愛について神について真理について理性で理解することも大切です。
真理を受け入れるか否かは理性によって決まります。
(自分も幼子(未熟)だと気付きそれを受け入れたので)理解のプロセスとしては「内観」「インスピレーション」「感情」
「体験、理解」「理性」とこんな感じだと思います。
(前後は無いので「理性」「体験、理解」「感情」インスピレーション」「内観」と言うプロセスも)
「悟り」とか「覚醒」について以前は特別なものだと思っていましたが、そうでは無くごく当たり前の事で、本来自分自身が神であることを「思い出す」事を意味してるんだと思うようになりました。
「道」には目的地があります。
人生(日常生活)はその目的地に着くまでの道程でどの道を選択するかを自ら決定しています。
経験での理解がその道標となります。
その道標から又行き先を選択します。
そうしてやがて目的地へ辿り着きます。
目的地は一つですからいつかは必ず到着します。
「目的地」とは所謂「天国」です。「国」と書くのでどこかに存在している場所の様に思われがちですが、本来は「状態」のことを意味します。
ですから天国とは神である意識状態(自分が神だと自覚した状態)の事です。
神についての表現として「愛」「平安」「無限」「叡智」「フォース(力、エネルギー)」「永遠、久遠」等が挙げられますが肉体から離脱(死を迎える)しなくてもその意識状態が今天国に居る状態であり、それを地上(肉体)天国と言ったり「即身成仏」とも言います。
道を進むには自らその道を歩むと言う事です。
ですからヒッチハイクは出来ません。
何故なら道標を選択するのは自分自身だからです。
例え誰かの話に影響を受けたとしてもその影響を選択(自由意志)したのは自分だからです。
ですから何を選択してもどの様な人生を送ったとしても「全て自己責任」です。
この事は忘れないでいて貰えたらと思います。

このサイトでも紹介されている本があります。

 

自分もずっとお世話になってました。

その事に触れる前にふと浮かんだことを書きます。
「語」と「話」についてです。簡単に言えば「語(言葉=吾)」は神からであり「話(言葉=舌)」は人間からと言う事です。
「話」の付く文字は全て人間が想像(創造)したものを象徴している。と、こんな感じです。
 本題に戻ります。自分の場合読書では無く朗読テープを何度も繰り返し聴いてました。
それで気づいたんですが読むでも聴くでもコツが有るのだと思いました。
それはそれらの本を通して語っているのは「神」であり神が語りかけている読者(全人類)は人間としてではなく神としてなんだ。と言う事です。
ですからもし読書したりテープを聴いたりする機会があれば、その時はぜひ「自分は神」と想って読んで試ては如何かと思います。
 
もう少し付け加えると好きな本、例えば小説や映画等を読んだり観たりする時、自分自身が感情移入(その主人公や登場人物に成りきって「感動」「集中」)した経験が誰にでも有ると思います。
それと全く同様です。
つまり神になりきって読めば(元々神です)・・・。です。
もう一度書きますが「神」か「人間」かどちらを意識(認識)するかの選択があるだけです。
因みに読んだ本もあります。(小説以外でです)
それは聖書です。初めて読んだのは中学生の頃です。
宗教全般には全く興味がなかったんですが何故か聖書に好奇心があり本屋で購入しました。
読んでは見たものの???状態で、お陰で熟睡は出来ました。😅
(それからずっと聖書は本棚で安らいで居てもらいました。😁)
そんな感じだったので内容については殆ど記憶に御座いません。
ただ「汝の救いは汝自身なり」「我は血や肉姿形に属するものに非ず。我は生命なり」。
この2つの言葉だけが記憶に残っていました。
真理を学ぶようになって講話の中に度々出てきていたので「そうそう、聖書にも書いてあった」と思っていたんですが、聖書を読み返しても記載されていませんでした。
載ってた筈だ。と、どうしても腑に落ちなかったので他の聖書(文語体等)にも目を通してみたんですが書いてなかったようです。
書いてあったはずなのに。と、記憶を辿ってみたんですがどうもその言葉の書かれていた下りが聖書に載ってないみたいな気がしてきました。
未だにその言葉がどこに書いてあったか発見出来ませんが夢の中でというのが今は一番しっくり来ます。
読み直すキッカケが神として読もうと思ったからですが、読んで気付いた事は「聖書は現象ではなく意識のことを語った書物なんだ。」と理解しました。
聖書(福音書)に書かれている様々な寓話や例えや聖者ご自身の体験も現象として捉えるのではなく意識の在り方(道、プロセス)として捉えれば良いんだと。
 この読み方のお陰で聖書に書かれている福音の意味が随分スッキリしました。
あくまでも自分の体験としてですが、一つの手段としてお勧め出来るかと思い書いてみました。
(ドラマや映画等観るときも試してみると良いかも)

以前は「悟り」

 

と言うのがこの世界で特別な事で、或る限られた人(選ばれた人)だけが悟りを開くと思っていたんですが勘違いだったみたいです。

「悟り」を言い換えると「思い出す」事だと思います。
逆に言えば今の自分は神である在ることを忘れている記憶障害の様な状態です。
障害とは五感の感化、分離(相対的な)意識です。
例えば「特別」と言う考え方です。
特別な人、特別な事、特別なもの、これらは分離意識の産物の一例です。
真理において「神は全てに平等」だと教えています。
原因が平等であれば結果も平等です。
結果に対して不平等を感じるのは神より与えられている平等の力(創造エネルギー)の使い方が個々に異なっている為です。
どの様な表現であっても創造のエネルギー、つまり「愛」によって表現しています。
結果の違いはその愛を愛情として表現するか別の感情や思考で表現するかです。
愛情表現で言えば恋愛感情として、家族愛として、友情として、という風に愛の使い分けを選択しているだけだと言うことです。
奇跡と言われるものも同様ですから特別なものではないです。
奇跡も愛の一つの表現です。
奇跡を創造するプロセスであれ日常の感情や思考の表現のプロセスであれ全く同じです。
違いは「知っている状態」「思い出している状態」に在るか、そうではないか。それが重要です。
日常の生活において忘れた時、何とか思い出そうと一生懸命記憶を掘り起こそうとした経験は誰にでも有ると思います。
真理の探求も同じで神である自己を思い出す(道)事です。
答え(我は神なり)は全ての個々自身の内に初めからあります。
この「真理 悟りへの道」そして聖者の言葉が語られている書物は勉強で言えば参考書のようなものです。
勉強も集中出来れば理解も深まり効率も上がります。
真理において勉強とは「内観」する事です。
何故なら答えは内に在るからです。
「内観」と「集中」です。
この2つは真理を探求する上で非常に大切だと思います。

意識と言葉

 

言葉は意識の事です。

全ての言語は意識を表現するためのツールなので言語(文字)自体に力はありません。

言語に力が有るように感じるのは言葉という力の表現であるからです。

植物で例えるなら本来の言葉とは植物の内に流れる「樹液」です。
そして言語は「葉」です。
この「樹液」が「意識エネルギー」「生命エネルギー」です。
もう少し具体的な例で説明すると「怒り」は言葉、つまり意識エネルギーを感情(思考)を通してその環状に見合った言語を選択し言葉が怒りの波長に変換されて放射されます。
この言語に変換されて発せられた波長のことを音(おん)と言いその元となる波長を音(いん)と言います。
「おん」とは「ON」「外」、「いん」とは「IN」「内」です。
ですからもし怒りの波長を発すれば相手にだけではなく自分自身にも影響を与えます。これってカルマのことだと思います。
つまり我々が人間(葉っぱ)として表現していればカルマの克服は不可能と言う事になりそうです。(汗💦)
真理と現在一般的に認知されている宗教との違いは真理は内から外へ宗教は外から内へ、つまり言語を通して理解されたものが伝わったのが宗教です。
言語は先の例で書いた通り理性(葉っぱ)での理解でしかありません。
つまり私と神は別々と言う「分離」と言う思考(言葉)を元に言語化したものだということです。
宗教に例えて書きましたがスピリチュアル系の殆どもも同じプロセスで表現されてる気がします。
これらのことについて善悪とか避難、批判したいのではありません。
以前にも書いたんですが何を選択してどのような理解をするかは自己選択です。
神は人類に全て自由意志、自己選択、自己責任として委ねています。
自分自身も神に全てを委ねるとバランス(調和、愛)とれるんじゃないかと思います。

天変地異(変)とパンドラの箱

 

天変地異と言うと大体の人が自然災害(現象)をイメージするのではと思います。

確かにその通り(自分もそうでしたから)だと思いますが天変地異を現象としてだけで無く意識の観点で考えてみたら理解の仕方どうなるだろうと。
天変地異を訳すと「天が変化し地が異なるものとなる」となります。
「天」とは以前にも触れたように「神の意識」の事で「地」とは「肉体人間の意識」の事です。
天に対する一般的なイメージは「天(神)は何処か遥か彼方にあり地上(人間)とは別々(分離して)に存在していると解釈されています。
変化とはこのイメージ(意識)の変化を意味します。そして地上は異なるものへと変化する。となります。
つまり分離から融合、一体へのプロセスが「天変地異」だ。となります。
このプロセスを「感情」として表現したのが「パンドラの箱」です。
パンドラの箱を開くキッカケは「欲望」です。
欲望によって肉体、つまり現象や物質に対して様々(相対的)な感情、思考、想像の結果が現在の地球です。
ですから天変地異を現象ととして捉えるなら想像しているイメージ通りとなると思います。
つまり現在のシステム、分離より想像された政治、経済、宗教は本来の愛、平等、平安が礎となるシステムに変化します。
なので大切な事は変化に柔軟か否かです。
例えば執着や固執と言う価値観をどうするかです。
パンドラの箱に唯一希望が残ります。
希望は「光」の象徴です。光とはこのサイトや聖者の教えの中心である「愛、真理」です。
希望はすべての人の内に在ります。と言うか内にしかありません。
天変地異の現象が起きてから希望を求める事も出来ますが、今求めることも出来ます。
という感じです。

マスターとメッセンジャー

 

両者を端的に表すとマスターは天、メッセンジャーは地と置き換えられます。

マスター(聖者)の言葉にこんなのがあります。「私自らは無(ゼロ)である。
私が語るのではなく父なる神が私を通して語るのである。
父なる神こそが私の導き手である。」「私は神と一体である」
これは真のマスターが誰なのかを簡潔にズバリと言い表していると思います。
つまりマスターとは「神」です。
メッセンジャーとは例えば預(予)言(神事)やそれに伴う人や書物、〇〇星の〇〇とか自称メッセンジャー等々でそれら発せられるのは自我の言葉です。
殆どのメッセージはこれらの類のものばかりでそこから得られる物は推測(イメージ)です。
真のメッセージは直接内なる神より来る言葉ですのでこの言葉の事を「天の声」や「直感」とか「天啓(インスピレーション)」といわれています。
ですから聖者の言葉は真のメッセージとなります。
真のメッセージとそうでないものとの識別の仕方はそのメッセージに分離のイメージが混ざっているか否かを観ることです。
「私自らは無」「神が導き手である」
瞑想についてこのサイトの管理者から聞いた言葉ですが「瞑想は私がするのである」と。「私」とは「神」の事です。
これらの言葉は日常にあっても同じだと思います。
瞑想の際これらの言葉を「主」に置けばイメージは自我からですからイメージ瞑想ではなくなると思います。
「急がば廻れ」
情報や知識はこの世界では役立つツールですのでNGワードだとは思いませんが。です。
例として瞑想すると人間の性なので仕方がないと思いますが直ぐに結果を求めてしまうことが多々あります。
実は結果を求めることは既に無意識にもイメージを想像しているからだという気がします。
そして結果がすぐに顕れない為に自分のイメージに合った情報を外に求めてしまうという結果となります。
これも「急がば廻れ」なのかもしれません。
違う解釈で考えると  急ぐ(効率良く理解する)には廻る(神に委ねる)と言う意味です。
結果が顕れるのを急がず自然に顕れるままに待つ。
顕れたものにとらわれずその変化に委ねる(再考しない)。
という感じです。
在るのは正しいか間違っているかの判断ではなく何を選択するかです。
「全ては思(想)った通りのものでありそれ以上でもそれ以下でもない」です。

天地一体

 

「色即是空」「宇宙即我」「神我(我神なり)」「私と神とは一体」、以前触れた「天変地異」もそれぞれ表現は異なりますが根本的に同じ意味です。

同じ意味とは「全ては神であり神以外存在しない。」という事です。
神以外存在しない、故に先に書いた「」の言葉が表現として在ります。
神について「無限」「久遠(永遠)」「遍満」などの表現も同じです。
大切なのは、これからそうなるのでは無く初めから「天地一体」だったということです。
意識であれ肉体であれ一つの意識、一つの質量(エネルギー体)に内在しています。砂浜で作る砂像の様なものです。
砂浜の砂、砂像の形の内側も砂、砂像の形が崩れても砂浜の砂です。
ですから正しい判断、正しい理解は内在する神に委ねるのが一番効率的だと思います。