悟りへの学び 体験談 コメント


 

本物の真理に出会えて  KS

 

真理を学ぶ出会いのきっかけとなったのは子供のアトピー性皮膚炎です。

アトピーの症状が酷く近所の病院へ通ってたんですが、薬ではなかなか完治しなかったため体質を改善すればと思い友人の紹介で食事療法の先生と出会いました。

そしてその先生から「心(真理)について講話をしている先生が居る」と教えて貰ったんですが、その時は新興宗教かなんかじゃないかと半信半疑でした。夫婦そろって宗教に対して懐疑的で、それでも何か真実というものを2人とも求めていた様です。
 
何かの宗教だと思いその
事は忘れてしまってたんですが、食事療法の先生を紹介してくれた友人が講話を聞きに行き、その時購入した本を読んでみるようにと貸してくれました。

 

「心を育てる瞑想」というタイトルで、その本を数ページ読んだ時

「この先生は本物だ!」と直感し、その当時覚者はとある場所で講話をされていたので機会がある度足蹴く通うようになりました。


その後、先生が関東に拠点を移動されて、全国各地での講演会が主となったんですが、何となく足が遠のいて講演会にあまりいかなくなりました。
と言っても真理から離れる事は無く、真理への想いは変わっていません。
 
ラムサの「真、聖なる預言」という本の朗読テープを毎日車の中で繰り返し聴いていた記憶はあります。
毎日聞いていても分からないところも出てきて、限界を感じていました。
 
そして数年前別の友人から連絡を貰い、それをきっかけに新たに指導して頂ける方と巡り会うことが出来、より深く真理を学ぶ機会を与えて頂き、エネルギーの流れを体で感じるようになりました。

 

本物の真理を知ってほしいと思い、心の学びの会にいっては真理の話を伝えています。

今では 、本物の真理に出会えて本当によかったと思い感謝しています。

 

もっと深い真理を知りたくて、夫婦で真理の話題も多くなって瞑想に励んでいます。

 


不思議な雨の体験

 

2.3ヵ月前  不思議な雨の体験をしました。

その日もいつもの様に屋外で仕事してたんですが、午後3時頃だったと思うんですが、地鳴りと言うか大気の振動と言うかドーンとゴゴゴーが混ざったみたいなけっこう大きな音がしました。
その直後位に宣伝カーが例のごとく大音量の音楽を鳴らして通過して行ったんです。

なんかすごくミスマッチでした。(笑)

そのまま作業を続けていると風が突然吹いてきて真っ黒な雨雲があっという間に現れ、雨が降り始めました。強い雨脚のようには感じたんですが、雨が硬いんです。

 

しかも雨脚の割にあまり濡れてなかったんです。

 

その時は兎に角作業を中断して会社に戻ろうと思い帰り支度をさっさと済ませて車に乗り込もうとしたら雨がぱったり止んでしまい、作業を再開するかまよったんですが、せっかく支度も済ませたので「まぁいいか  今日は帰ろう」と車に乗り込んだんですが、その時には既に服が全然濡れてなかったんです。

 

エンジンを掛けて出発しようとすると又背後から強風が吹き前方の道路の雨水が波打ち、風に巻き上げられ(たように見えた?)、それに背後から太陽の光が当たり黄金色の道が見えた(感じがした)んです。

(因みにアスファルトの路面はアスファルトの路面として見えてます。(笑))

めちゃくちゃ綺麗で思わず「うわ〜!」っと思わず声が出そうになりました。
その時「道は整った。この道を進むんだな」との想いが心の中に現れて、祝福された様な気持ちになり幸せな気分を味あわせて貰いました。

不思議な雨に感謝です。

翌日近くに居た同僚にその日地鳴りの様な音が聞こえたか確認してみたんですが、宣伝カーの音しか聞こえなかったそうです。

そんな体験の後しばらくしてからの事なんですが、2回ほど今までにしたことの無いインスピレーション?を体験しました。

普段疑問に思ったことの答えを指導霊から受ける時、「あっ!そういう事か!」と言うのが必ず頭に付くんですが、ある日いつも通り通勤し車をバックで駐車中突然「私は神」と言葉で内から出て来たんです。

「えっ???」「なんで?」「どういう事?」と全く理解不能でした。

 

又別の日、しばらくしてからの事ですが運転中に全く突然「全て兄弟」と言葉が出てきました。

その時は「これって幽界のたぶらかしか?」とか色々想いを巡らしたんですが、未だに理解出来てません。

ただその言葉のお陰で、今は横の愛を以前より強く意識するようになれた様な気がします。

その言葉が例え幽界からであれ(ではない事を願いますが)感謝してます。


人生の本当の目的を教えてもらいました。  NM

 

「この世に生まれてきた目的は何」と問われて、はっきりと答えられる人はどの位いるでしょうか。

 

私も、二十歳の頃から、様々な聖者についての書を読んで、おぼろげながら悟りに向かうことが人生の目的ではないかと思うようになりました。

しかし、現在の世の中、毎日食べていくだけで大変なのに、とても本に書いてあるような隠遁生活を送るわけにもいかず悶々とした日々を過ごしていました。
「生きていくのが苦しい。

 

悟ってしまえば、苦しみから抜け出せるのではないか。でも、悟った師に出会わなければ難しいのではないか」という思いから、あれこれと師を探す旅が始まりました。
最初に気功を約1年続けましたが、体調が悪くなったり、事故に遇ったりと、逆に苦しくなり、とても悟りの方向へ向かっているとは思えませんでした。


鬱に近い状態になり、会社も休みがちになって、絶望の中で、次に出会った人は、霊能者の先生でした。「気功とは違うエネルギーです」と言われ、写経や懺悔行を続けると気持ちは楽になり、運気も好転しました。

「これが悟りに向かう正しい道だ」と思えて、3,4年続けました。ところが、一緒に行を続けている周りの人を見ても、何か自由さがなく、自然体でないので、違和感を覚えるようになり、自ら離れていきました。


その後、そこから離れたことにより、「自分は間違った選択をしたのではないだろうか」という後悔の念と罪悪感にさいなまれる日々を送ることになりました。
このような生活の中でも、「悟らなくては」と思い出すことはしばしばありました。


そして、ついに運命の出会いがありました。それは、真理の学び、ホームページでした。
中を読んでみると、20年前に読んだ悟りの状態と同じ内容が書かれており、「今度こそ、本当に探していた人に会える」と思いましたが、以前の苦い経験があったので、「また、違う道かも知れない」という思いとの間で葛藤し、勇気がでませんでした。


瞑想の方法を教えてもらい、今までになく、自分が本当に求めている師に出会えたと体全体で感じることができました。
それから何度か、瞑想を繰り返すうちに、いつの間にか以前の先生から離れたことに対する罪悪感の呪縛からも開放されていました。

瞑想してバイブレーションを上げてゆくことが、真理(悟り)に近づいてゆくのだと感覚で気づきはじめました。


冒頭の「この世に生まれてきた目的は何」の問いに、今では自信をもって「悟ることです」と答えられます。


指導霊の体験  KY


私は夜空を見るのが好きで小さい頃からずーと好きで、それは今でも変わりません。
お葬式があると空に帰ったと聞かされ、それはずーと疑問でした。
小さいながらもこの世界は何か変だなと、漠然とした思いを抱いてました。

何かかがおかしい理由は分からないけど、その思いは大人になっても消えることはありません。
何が真実なのか知りたい、本当の事が知りたいとその思いを抱いている時、覚者の本と出会いこれだと思ったけどものすごく大きな山だと感じ、もう少ししたら取り組もうと自分自身を甘やかし逃げていました。

魂の琴線に触れてしまった以上いつも心の中にあって、そこから忘れることができず結局瞑想を始めることなりました。

最初は中々うまくいかずこの方法では只の空念仏だと思い、瞑想は一時中断して徹底的に理解力を上げることが先だと思い自分の中での追究が始まりました。

 

試行錯誤と理解力の繰り返しで何とかコツをつかむ様になりピントを合わせることがで出来る様になると、脳に一瞬弓矢が刺さる様な衝撃が走り痛みはないのですが少し怖さもありました。

 

何度も繰り返しているうちにこんな事をやっていて意味があるのだろうかと思う時もありました。
それでもあきらめずに頑張っていると色々な体験もしました。

 

霊的体験とでもいうのでしょうか

頭脳で得ることのできない感覚を伴った教えでした。
日がたつとうすれて殆んど忘れてしまっていますが、その中で今でもはっきり覚えているのがありますが、その中から書いてみます。

ある日部屋にいる時、突然宇宙からアォームという響きが等間隔に聞こえ思わず窓を開け、何だろう何だろうと空を見上げた記憶があります。

五分位聞こえていたと思います。

 

また瞑想をしている時 密室に入った時もありました。
誰に教わる訳ではないのに、ここは密室だと直感的にすぐ判り、ここが想いを想像している発信元になっているのが理解でき、汝の密室にて祈れ という言葉がありますが、私はここで何も祈らなかったことに後になってから少し悔いが残りました。
その時は驚きの方で一杯でそれどころではなかったのです。

三つめはやはり部屋にいる時、突然何かが切り替わり、見られている 自分の何もかもが 心の中もガラスの様に見透かされ

まるで裸で放り出された様に、宇宙から自分はまる見えになっている いたたまれず何処かに隠れる所はないかと部屋の中を

ウロウロと歩きまわり、見ないで 私を見ないでと 心の中で叫びながら頭から布団をかぶった事もありました。
あれは本物の自分、大いなる我に見られていたのでした。

 

他にも数えきれない程の霊的体験はありましたが、常に指導霊が気付かれないように様に意識をいじっていると感じる時も度々でその中で教えが数多くありまして今でもその教えが続いています。
体験はあくまで体験であって霊性指導霊がこっちですよ、こっちの方向ですよと教えてくれてる様な気がします。

 

そして意識の切り替えを促されているのではないかと思います。
意識の切り替えは簡単だけど、どれ程根気のいる作業で、困難に思えるけどまい進していくしかないと思いました。

始めは真実が知りたい、本物が知りたいという思いから真理を学び始めましたが、今では生まれ変わりを繰り返し、いい事ばかりではない人間としての人生は卒業したいと思っています。


愛の光体験 コスモス

 

私の魂が忘れる事の出来ない、不思議な体験したのは、今から15年程前の事です。


この世の三次元の物質世界には匹敵するものはなく、例える事は難しいけど、あえて云えば・・・・・ 太陽より眩しく、月よりも奇麗で、ダイヤモンドの輝きより勝る白光が自分の中に存在していた真実。


この50年の人生で、最高の至福の時を過ごす事が出来ました。


ある朝、いつものように瞑想を終えて、会社に出勤しようと、「よ~し、今日も一日、愛の心で頑張ろう」と、大きく深呼吸をした瞬間、私の体から無数の光線がもの凄い勢いで、
ピュン ピュン ピュン ピュンと飛び出してきたのです。


赤、青、黄、緑、紫など 奇麗なガラス細工のような、光輝くものがあたり一面に飛び出し、もうびっくりです。


「オォォ~~」って感じ 「なに?これ? どうなっちゃたの!」
大声で叫びました。


そして隣の部屋で寝ている主人を大声で呼んだんです。
「お父~さ~ん 起きてー!」ってね。


瞑想をすませた主人は心地良さそうそうに寝てしまってちっとも起きてくれないんです。


私はもう、びっくりするやら、可笑しいやら、嬉しいやらで、その光が飛び出てくるのを喜んで見てました。
ピュン ピュン ピュン ピュン、不思議~って、なんて奇麗なんだろ~って。


それが、いつのまにか部屋一面、真っ白に輝き始めたんです。
その鮮やかな、光輝く白光世界にうっとりしてしまいいました。


ワ~ァ~」って感じかな?味わった事のない心地よい至福感。
心と体が光の中へと、溶けて消えてしまいそうな、なんともいい表す事のできない、しあわせな世界へ入り込んでしまったような感じでした。


もう、隣で寝ている主人も光で見えなくなってしまったんです。
部屋にあるすべてが、私の体も何もかも見えなくなって、でも私の意識だけはしっかりとあるんです。


目はしっかり開いて見えるのに、思考が止まり、なにも考える事ができなくなってしまいました。
それと、もの凄い白光で光輝いているのに眩しくはなかったです。

それよりも光輝く白光に見とれていました。もう、ず~っとこのまま永遠にここに留まっていたい。

 

このとき時間というものを感じなく、どれくらい、何分ぐらいかよく分からないです。
その心地良さにしたっていたら、カチ、カチ、カチと時計のような?宇宙クォーツなような?
音が聞こえてきて、現実の世界にもどったような気がします。


その体験をしてからの一週間が、いままでの自分と全然違うんです。
心は幸せいっぱいで、体もかるく頭で考えることもなく、なにかが変わったような感覚でした。


家の窓から外の景色を見た時も、なにもかもが光輝いていて、えッ!なにこれ!とビックリしました。
私はいままでこの素晴らしい景色をなんて汚れた心で見てたんだろう、ってね、涙がどっと溢れ出て止まりませんでした。


田んぼの緑も、そのあぜ道に咲くコスモスも草花も、紫がかった黄金色にキラキラと輝いているんです。
本当にうっとりするような色合いでした。


青空の景色や、夜の月も、何を見ても今までと違い、喜びが溢れ出て、涙が止まらず、至福感に溢れた日々でした。
太陽の眩しさや輝きがないのには、ちょっとびっくりしました。
友達に聞いてみたら、いつもと同じように太陽は眩しくて見ることができないと言っているのですが、私には、眩しくなく白くて丸い太陽で不思議でした。


毎日が心満たされ、人生って、生きていくって、こんなに嬉しいものなのかって、思いました。
私は、どう生きていけばいいのか、見つけたような気がしました。


ただ、愛の心、愛そのもので、生きていけばいいんだと。
この大自然の流れのように、・・・・私もその中の一部で愛を与え続け、・・・・
すべての人の魂は光輝いているのだと、この体験を理解できたのも、ある人のおかげです。


「それは、自分自身が愛の白光だと体験できたんたよ、真の自分、大いなる我を、のぞき見したんだよ」
って教えていただき、いまこうしてその体験が心の支えになり、どんなときでも、揺れ動かない愛で、
もっと深く愛を追求していく力になっているのだと思います。


ある宗教に、どっぷりつかっていた私を強引に辞めさせ、本当の神を求めなさいと、導いてくれた主人に感謝
しています。そして、この体験を与えてくれた、神に感謝!!!。


真実の愛を求めて 光(ひかり)一(はじめ) さんのコメントです。

 

最初に話したいこと、それは今この瞬間に言えることは、真理を求めることで一番大切なことは、「自分とは何なのかを知ること」「自分が真実の愛であることを求め続けること」これ以外、真理を求める道はないって言い切れる。

 

◆子供の時の霊的体験

この白い光に包まれて,何か美しく清いものに触れている感覚で号泣してしまう体験は,その時から数十年にわたって経験してきています。 

私は,直感でこの光が神なんだと思いました。

私はこの光に「あなたは誰ですか?」「あなたは神ですか?」って質問を繰り返しましたが,全然答えはありませんでした。 白い光が自分の中に入ったと感じた時に,目を閉じてみると,私の体全体が白い光に包まれていました。

なんともいえない心地がいいのです。とにかく嬉しい。その光に包まれている時は涙が込み上げてきて,声をあげて泣いています。

悲しいのではなく,嬉しい,何か美しく清いものに触れている感覚で泣いているのです。 

小学校に入ってから,夜寝るために横になっていると,夢ではないはっきり起きている状態のとき、目を開けている状態だから,白い光が私に降りてきて,私の全身を白い光が包み込むということが起こり始めました。 

神様や仏様に会ってみたくって会ってみたくって,周りにいた大人たちを,困らせていた。 

 

私は幼稚園の時から神理の追及が始まっていた。それは,祖父母や母親に「神様や仏様に会うにはどうしたら言いの?」「人間って何?」ってことをよく聞いていたのを覚えている。
  

 ◆ 西野塾にいた時の霊的体験

20代後半から、由美かおるの師匠の西野皓三先生の西野流呼吸法の西野塾で「気」を体感することになり、形のない目には見えないエネルギーを体で感じるようになりました。

「気」をいろんな感じ方をしていました。

 

例えば、電線の近くには、電磁波が電線から出ているでしょ。

その電磁波は手のひらにぴりぴり感でその強さがわかったし、人のオーラは、お互い真正面でいるときは、水の中でジェットバスのような圧力を臍のあたりに感じていた。

 

その圧の強さが人にとって違うこともわかった。体全身でその人が自分に好意があるか敵意があるかを感じ取っていた。

世の中、場所によってはいい気と悪い気が感覚でわかるようになっていた。

 

 ◆ 神職の時の霊的体験

とある神社の神職をしていた時は、その神社で「行」を毎日行っていました。そして、仕事と趣味で各地の神社仏閣を巡っていました。

鹿島神宮の御神木のエネルギーの大きく強いことと清らかなこと、祓い清めてくれるエネルギーを感じました。

また、氷川神社はその社がまるで掃除機のように、邪気を吸い込んでくれるのを感じました。前者はエネルギーの放出で、後者は吸引です。

 

浅草寺で、このお寺は子供のころからよく行っている所です。

日ごろは仏像の前までいって御参りをすることはないのですが、その時は仏像の前まで行って、お参りをしていました。

 

愛染明王の前で御参りをして愛染明王のお顔を見ていた時に、「われわれ、仏は形を持って、形ある人間を導いてきたが、われわれ形ある仏には限界がある。

人間たち自信で救いを求めるようにしなさい」音として耳で聞いているのではありません。

 

私が奉職していた神社は山の中にあり自然が豊かなところにありました。私は,その神社内にある高天原の草むしりを一人でしていた時その前に、この高天原は風水で言うところの風穴のある所で,大地のエネルギーが放出している場所です。

気功をやってきたから,出ているのを体で感じていたから,よく好きでここの高天原の掃除を一人でしていた。

 

その場所で隠れて明想が出来たから。

その時は,しゃがみながら草むしりをしていました。

はじめは,風の音だと思っていたのです。

でも,子供がはしゃいで笑ってるような声が聞こえてくるのです。

 

おかしいよな、ここの場所は立ち入り禁止だし,笑い声は林の奥から聞こえてきていたから。

そこは,大人より背の高いススキが密集して生えているから。

手を止めて,立ち上がり,あたりを見渡していると,赤松林の間のススキの方から,そこには,植物しか生えていません。

 

「私達は,人間と共に歩みたいの」
「人間は君たちを破壊するじゃん。それでも?」(私)
「私達は,人間と共に進化(物質的に進化するのではなく魂の進化)を続けていきたいの」
「人間は,この世の支配者という気持ちで,自分たちの首を絞めることを知らないで,自然を破壊しているのに,そんな人間に 
進  化できるの?」(私)

 

「人間が気がついて魂の進化を遂げていけば,私達もそれに伴ない進化が出来るの」
「人間が進化をしていかない限り,私達だけでは,進化することが出来ないの。

人間の力が無ければ駄目なの」

 

「私達は,人間にどんなことをされても,人間を癒し、進化の力となるために助けていくことが、私たちの役目なの」
「この地上の全ては、共に役割を演じて、進化し続けるの。
でも、人間の魂が進化をしない限り、地球は進化しないの」
「地球は共にあるの」

 

その後、私は一人高天原で、号泣していた。
これは、音として耳で聞いているのではなく、一種のテレパシーです。愛染明王の時と同じ感覚です。

 

私の眉間に光が入って   きて、それが何を言いたいのかが理解できるのです。

実際には声一つ聞いていません。