1少し深い真理へ >2少し深い真理2 へ > 3真理を広める歩みへ > 4真理を広める歩み2へ >
5霊的エネルギー体験へ >6霊的エネルギー体験2へ > 7つぶや記へ > 8つぶ や記2へ> satoriページへ戻る
1一般の人も学べる真理 悟りへのサイトを作ってみました。
サイトを立ち上げたけど、アクセスは少なく、今の時代真理を理解しようとする、意欲のある人を探すのは難しいのかもしれない。
覚者 先生が真理の話していた時代、1990~2000年頃から25年近くたってしまい、世の中が目まぐるしく変化し今の時代は無理なのかなと思ってしまう。
丁度覚者先生が講話をする時代が、昭和生まれの育ち方、環境 考え方、童謡を知っている世代で、真理を理解でき安い様々な要因があり、そのわずかの間、講話していた年月とうまく合わさり、あの時だったから真理を学ぶ人が集まり良かったのかもしれない。
真理に対しての文章を残しておきたいという思いが昔からあったので、アクセスが少なくても気にならず、ただ当時のことを書き残しておきたいというのが今の心情です。
昔から心の中で常に真理を語っており、それが私の思いであり、その私の思いはいつしか天の想いと融合されてきました。
深い真理を伝えたいと思えば、心の奥底から真理が言葉としてあふれ出てきます。
たくさんの天の存在が入れ替わり、立ち替わり伝えてきます。
私の想いは天の想い、天の想いは私の想い、深くなれば成る程融合し分離がなくなってきました。
私のものは貴方のもの、貴方のものは私のもの 先生から聞いてはいましたが、実感が出てきました。
昔、心の中で真理を語っていた事も全部自分の思いだと思っていましたが、実は天がすでに私の表面意識に気付かれない様に教えていたという事を今になって伝えてきました。
前もって教えたら学びにならないので、分かりましたかと神はいつも後だしです。
2◆覚者は自己追究し天界まで上がってきてほしいと願いつつ、自身の波動が上がりすぎて、いつまでも肉体を現し続けることが出来なくなり、覚者は天界へお帰りになりました。
覚者がいつまで地上界にいられないと云っていた通り天界へ還られました。
残念と思われた方も多いと思いと聞きますが、それは仕方のない事だと思います。
先生の真実の真理、説法はいつまでもしないと言っていましたが、その期間は短くそれは始めから神の計画であり真理への学びをより深くする為であります。
どうしても先生に頼ってしまい過ぎたりして、外の世界で無意識的に言葉の真理を鵜呑みにして理解しようと思ってしまうからです。
先生は私がいるが為、私に頼り過ぎて追究心を奪ってしまうので、私がいない方が頑張るのではないかと言っていました。
外〈この世〉の世界に先生がいなければ天にいる先生に意識し教えを直接受けるしかなく、また自らがもっと天に繋がる様に頑張るしかなく深くからの学びが始まり、やがては天界に帰れる様にする為です。
私が去った後に私の説いた真理を題材にして物売りしたり、私の真似をして偽物の指導者が数多くでてくるから偽物には気を付けて下さいよとよく言っていました。まさに今その通りになっています。
また偽物と本物の区別がつかなくなり、その後悟ることは難しくなると言っていました。
真理の学びから去っていた人や、理解が足りず他の先生の所へ行ってしまった人に対して、先生は自由意志があるがゆえに、止めることは出来ずとても残念な事だとよく言っていました。
外(この世)の世界で真理を判断しているからですが、もう少しで理解出来たのに去っていくことは、せっかく先生に出会えたのに残念だと私もそう思います。
この世を外の世界と表現するのは、神の世界は内側となり心の中実在し、外の世界はこの世となり、一体で存在しています。
学びの為内、外で説いています。
3◆先生がこの世から去った理由
始めから神の計画であり、真理を学んでいる人が頭脳や自我で解釈しようとしている為、先生がいなくなり講話が聴けなくなると、自我での解釈が出来なくなり、本当の真理を追究していく事が神の計画です。
本当の真理は知識で理解するものではなく、どういった事かを追究し正しい答えを自から出し、自覚する事が本当の真理、悟りであります。
自らが正書であって正しい書である事を知る事です。
後ろの正面だーれ、は正しい自分を知る事を、自ら追究させる為先生は去っていったのです。
あの人は意識が高いや低いは全て自我から来るもので、誤ったものの考え方であり、また自我で真理説いている事にも気が付かず、真理とは何が正しいのか、間違っているのか善悪で判断するのではなく、自我から来るものは全て間違いである事にき気付き、真我から来るものは全て正しいという事を深くから理解することです。
地上の人、全ては人格神(真理)であることを理解させる神の計画は、伝えても伝えてもどうしても、聞く側の人間と言う意識を通すから難航しているのです。
神の世界は完全かつ無限の世界なので難航しているという事すら、本来は存在していませんが、地上界の言葉に置き換えて、メッセージとして伝えてきました。
また真理を言葉に置き換え伝える為、神が使える肉体を媒体として必要としています。
再び先生の講話を見るのもよいと思います。
4◆クリスマス会
初期の頃のクリスマス会は、学んでいる人も少なく先生が講話している、ペンションで行っていました。
天界がらイエス始め多くの高級指導霊が降り、その人に合った高級指導霊が一人に付き指導することが起きました。
降りて来た時、急激に波動が変わり殆んど人がその事が分かり、感謝と喜びの涙が止まりませんでした。
またクリスマス=イエスキリストという認識を地球上の多くの人が思う事で、天界にいるイエスと軽く繋がり地上の波動が少し上がります。
地球の波動と学んでいる人の波動が同調し増幅する事で、クリスマス会場の波動が上がる為、指導霊団が降りてくるのです。 このクリスマス会は初めから神の計画であり、クリスマスの時にイエスを多くの人が想うことで、地上波動が上がるからです。
この事はクリスマス会で数回繰り返し行なわれ、天界からイエス始め指導霊団が降りてくる事は変わらず、学んでいる人全員指導しています。
この時も会場の波動が急激に高まり、感じやすい人には分かります。
クリスマス会に浮かれ得意に成って、天使の羽を着けてくる者も出てきて、その天使?と驚き、唖然としている人も・・・その天使じゃないでしょと、何を学んでいるのか、まさかと思った人も多くいました。
真理を理解していなく、幽界まがいのリーダーの説く誤った真理を信じて、そのリーダーに付いていくグループも多くいましたが、その人達に何を言ってもリーダーを信じている為、どうする事も出来ませんでした。
それは真理が浅く求めているものが、リーダーと同じであるからです。
心がリーダーやグループと同調する事で、知らず知らずの間に幽界に誘惑され横道にそれていきます。
一度横道にずれるとなかなか修正できず、真理を深くから理解しない限り今だになにも変わらないと思いました。
クリスマス会は十数回行われましたが、学んでいる人全体の波動が少しづつ上がり、後は自身が波動を上げる事に専念する為、にクリスマス会は行われなくなりました。
5◆真理は人から聞いて説けるものではなく、聞いた話や知識で学んだ事を題材にして自我で説こうとする習性があり、そのことにいち早く気付き、真理を説くという事は、元々ある神の世界を知りそれを言葉に置き替えて説くことが本当の真理を説くという事です。
頭脳で真理を理解する事も必要ですが、真理は自我意識ではいくら努力しても説く能力がないため説けません。
また説くことではなく自身の神を知る事が先決です。
それを知らない限りいくらディスカッション等したり、又人に伝えようとしてもそれぞれが浅い体験や誤った幽界の体験等を頭脳で組み立てた真理であり、真理を議論しそこで理解する人も少しはいますので、議論すること自体が悪い事ではないのですが、その過程において色々なトラブル(心の中のトラブルも含む)が生じてくるので、その事に一早く気付く事が大切です。
自分が言ったことを相手が受けとめると気分がよくなり、相手に愛を与え感謝されたり、またその逆なこともありそれが本当の愛の様に思えますが、本当の愛は神の愛を自ら知る事が先決であり、その時に本当の愛を伝える事ができます。
自我で神の愛は説けませんが、愛を他の人に伝えたいという想いは御心であります。
グループディスカッション等で生じてくる相手とのトラブルには口に出すトラブルと心の中で気分が悪くなる様なトラブルがあります。
それによりグループや派閥が出来上がり悪口やトラブルが絶えず、リーダーは偉そうにして命令的な真理になり、真理の目からすると何を学んでいるのか、普遍的な愛を学んでいるのではないのですか、このことがエスカレートしていくと、先生はよく注意していました。
神はひとつで、愛の学びなのに何故そういう事になるのかと追究していけば、愛とは何かを理解していきます。
トラブルも真理を追究するひとつの題材であり、このこと理解することが大切で、気付きがないといつまでもトラブルの輪の中にいます。
霊的体験も色々な体験があり真理へ繋がる体験ばかりではなく横道、幽界へ逸れていく霊的体験もあります。
幽界への横道はそれを求めている人には魅力があり、悟るには何があっても神一途に求めていく事が大切で不可欠です。
霊的体験で波動が高いとかあの人はすごいとかで判断しがちですが、真理の理解とはあまり関係がないです。
幽界とは三位一体「神の世界・死後の世界・現界この世」の中の死後の世界のことです。
6◆真理を実践してく上で、固定観念としてこの世の欲望を全部捨ててから、行なわなければならないという悩みをよく聞きますが、この世にも生きているし生活もあるので、それは我欲とはならず欲望がないのは、覚者か世捨て人のどちらかです。
自我欲があるが為、それを取るために真理に向かっているし、我欲がないならすでに悟っており学ぶ必要がないはずです。
真理を学んでいても自我からくる欲望や執着等は覚者のようにに完全に悟るまではなくなりません。
自我からくる欲や執着を減らすのは光ですので、光を持ってくる方法が先決です。
完全に悟るまで多かれ少なかれ誰でも欲望はあり、その様な事はあまり気にせず、先に神という光を持ってくる事で瞑想しやすくなります。
真理を学んでいる殆んどの方、全員と言っていい程 自我をもったまま瞑想に励んでいます。
悩みや気分が悪い時などに、瞑想するのは難しいと感じている方は多いですが,瞑想、真理とは意識を切り替えていくことなので、そう難しいことでもなくまた心配することではありません。
そういう時こそ、それをバネにして如何なる時も神を想う瞑想を習慣性にしていく事が大事で、四六時中、神を想う事です。
瞑想をうまく出来る時は神、悩みがあり瞑想できない時は人間と使い分けていませんか?、 如何なる時も何がどうあっても神である真実に変わりはありません。
ここで言う悟りへの瞑想は
全ては一つである神を深くから想い続け、神から指導を受ける、また神を実感する為の瞑想です。
7◆真理を難しく考えすぎている人もいます。
ああなったら次の段階、こうなったら次はこういう体験をしていくと思っている人もいますが、それらの事は概念から出てくる想いです。
真理には順番や段階などなく理解力に応じて自分に合った学びへの体験で、人それぞれ体験は違います。
心身の神癒に真理は今の今にありそれは簡単、と書いてあるように、真理は今の今にあり意識を切り替えるだけのシンプルなものです。
悟る方法は簡単ですが、完全に悟るには 集中力や やり続ける 持続力 忍耐力が不可欠です。
そこの部分シンプルで同じことを繰り返し簡単なゆゆえ、ヘドが出るほど一番大変で並外れた精神力が必要です。
そこの部分が乗り越えられず諦めてしまう人や足踏みしている人が多いです。
先生は同じことばかり言っていると浅い境地で解釈し、瞑想しても何もないじゃないか、何も変わらないじゃないかと言って去ってしまう人もいました。乗り越えたその先に・・・想像を絶する愛があるのです。
また環境を理由にしている人もいますが、如何なる環境においても、何がどうあっても、神である真実は変わらず、意識は自由で、意識を切り替えるだけなので出来なくはないはずです。
環境に左右されては成らないし、意識は自由であるから、どんな環境にも打ち勝っていかなければ成らないと思います。
8◆何を求めどうやって求め何を追究したらいいのってよく聞きますが
自身が神である事を深くから知りたいもっと深くから、知りたいその事を求めて求めて求めるという事です。
追究は神の世界、自身の本質は本当はどういう風になってるのか、何故人間が存在するのか等、全ての根源を想いの心中で追究するという事で、叩いて叩いては何度でも何度でも開くまで、あきらめてはならないという事です。
瞑想は日常で自身が神である事を無意識的に想う事を定着させる一つの手段で、神である本物の我はエネルギーであって形がないので、瞑想等に形をとる必要性ないのです。
神の世界はどこまでもミクロへと無限に深く、ここが神の世界だという事ではなく、神そのものが無限の方向性ですから、瞑想で何かをイメージ等する瞑想は、固定観念瞑想となります。
深くからの瞑想はそこにとどまる事なく、神は無限の方向性ですので、瞑想でも無限の方向性を追究し自身も神と同じ方向性を知る事で、自身の意識が内なる神と融合していきます。
瞑想で知るべきものはどこまでも限りなく深く、どこまでも深く続く愛の無限の方向性を知る事です。
物事を善悪で判断すると、頭脳で学んだ事が固定観念となり、深い真理が説けなくなってしまいます。
神には善悪で判断するというものがなく、自身も愛として愛から観る事で真理が愛により自ずと説けてきます。
9◆幽界(死後の世界)に繋がると殆んどの人は道から外れ駄目になる
幽界(死後の世界)と繋がって説く真理は巧妙で、本当の真理かの様に紛らわして、本人の現象体験等と照らし合わせて説いてしまうから、真理まがいの誤った真理を本人が信じてしまうからです。
幽界から伝えてくる真理はあたかも本物の様に伝えるので、惑わされてしまい本物かどうかの見極めが難しく、本物の真理を理解しようとしても、幽界まがいの体験を元に頭脳で考え、先生の説く真理とを混ぜ、それを頭脳で組み立てて説いてしまうので、誤った真理になってしまうのです。
地上界で誤った真理を学んでいた者が幽界に帰った後、自分が学んだ真理を教えようと霊媒体質の真理を学んでいる人に懸かります。
一旦懸かると、懸かられた本人も無意識的に招き入れている為、そこから抜け出すのはとても困難な事です。
また懸かっている霊人が、生前に学んだ誤った真理を正しいと信じているので、それを教えようとして、中々離れようとしません。この様な霊人達は傲慢でしつこいです。
本人もこの影響を受け起伏が激しくなり、傲慢になってきます。
幽界からの真理は誤った真理であり、何故誤った真理かというと幽界にいる霊人は悟っていないから、正しい真理は知らないからです。
深い真理はいくら考えても頭脳で説けるものではなく、神から降りる真理は頭脳で説く必要もなく、自身が神そのものの意識状態になって、ただそのまま知る事です。
10◆人と神と別々にある訳ではない
魂や肉体遺伝子から性格が形成され、それを五感で感じている自分は本当の自分ではないのです。
私は人間という意識の状態が、いま五感で感じている自分を無意識的に造り出し、それを無意識的に自分だと思っている意識状態です。
それはリアルな影(幻)の様な自分であって、真実の自分はそのままにして神であり、また何がどうあっても初めから大いなる愛そのものです。
肉体や物形あるもの全ては高速振動しているだけで、触ったりすることはできますが、実在していなく影の世界となり幻の世界となります。
ものの中心にある神(本質)のがエネルギーがそれらのものを現しています。
その事を真理の学びにおいて、心の奥深くから知り実感していくのが悟りへの道です。
深層意識の深いところ 心の中心にある愛が人の本質であり、人の自我意識や感情界の幽界意識は愛の創造原理を外の意識状態で創り上げた幻の意識状態です。
誰しも、今毎日使っている意識そのものが創造原理で、外で使っている人間意識であるか、神の意識状態である内側で使っているかの違いです。
神の創造原理は人と神と別々にある訳ではなく、その意識の状態があるだけなので、私の意識は神の意識であると断定して、私は神そのものであると何度でもなり切ることで波長が合い、内なる神へと繋がっていきます。
また無意識的に神との分離感を持っているために、分離感をなくしていく方法として意識を神へと切り替えていく必要があります。
ひとつの方法として、いつでも何処でも何をしていても何を見ていても、四六時中全ては神である、と深くから真剣に想い続けることで自分の心に内なる神が着座(定着)してきます。少し位想ったり生半可の想いでは神は着座しません。
また良い性格の人は神と思いやすく、嫌な人は神と思いにくい等とは人間である自我からくるもので、この想いを正さなければなりません。
全ては一体、宇宙一体神という事を理解し深くから知りそれを実感することで、宇宙一体であることを知ります。
11◆悟りへの内観瞑想について
昔の悟り方では地球上のエネルギー波動が低かった為、内観瞑想で得たエネルギーが地球にアースされ、流れ出るのを防ぐため毛皮の敷物の上で瞑想をしていたという事です。
また俗世間の影響を受けない為に、洞窟にこもって一心集中し追究していた様です。
しかし現代ではその時の地球の波動とは違い、洞窟にこもる必要はなく生活の中で悟っていくことが可能と成ります。
瞑想や真理の学びに段階はありませんが、悟りへの進行形です。
瞑想すると愛に満たされ心地よくなってくる人が多いのですが、それは悟りとしての入口のところで愛のエネルギーに酔っている様な状態ですので、より深く追及していく一心集中の深い瞑想が求められます。
私は瞑想できる様になったからこれで良いと、思っている意識状態の瞑想は固定観念瞑想となります。
固定観念は自我から来るもので、悟りへの瞑想はより深く追及していく進行形です。
そこの境地で留まっている事になり、より深くから神を求め追究していく必要があります。
また自我意識の状態で一心集中の瞑想しても空念仏となってしまいます。
過去に学んだ事や人から聞いた真理や瞑想の仕方等が、思い込みの固定観念として入っているので、心を空にしないと新たに正しい真実が入ってこなく瞑想で横道にそれたり、無意識的な固定観念瞑想となってしまいます。
この瞑想をしている人が多いですし、また幽界と繋がる様な危険な瞑想となる場合があります。
意識は創造原理ですから、求めているものを創り出す力があり、光や何かをイメージする瞑想は求めているものを創り出し、その創った光等を見て神と勘違いする事もあります。
意識には何でも創りだす力があるからです。
真の内観瞑想は何もイメージせず、深くから私は神そのものである、神そのものは私であると神との分離感なく真剣に一心集中することです。
またリラックスして私は神そのものであると想うことも必要で、神との波長を合わせる為の方法であり、ひとつの方法しかありません。
持てるもの全てを持って、全身全霊で一心集中の瞑想すると、エネルギーを使い果たしヘトヘトになりますが、神はそれ程の集中力を求めています。
ヘトヘトに成っても神に対してエネルギーを使う訳なので、神からエネルギーが何倍かになってに与えられ、すぐに回復します。
またこのエネルギーは集中力エネルギーでもありますので、何度でも集中すればする程、集中力が高まり続けていきます。
神以外何も実在していないから、心に実在の神以外何も持ってこないという事です。
もし瞑想法が間違っていたらどうか私を正してくださいと、真剣に心の奥深くからの想いで語りかけることで、内なる神から正されていきます。
より深くからの瞑想をするには内なる神と繋り内側からの教えが必要となってきます。
真の瞑想指導は内側にあり、内なる神と共に宇宙指導霊団や高級指導霊も指導する場合があります。
さらに深くからの瞑想は、主、内なる神 自らが瞑想し感覚を伴い正しい瞑想指導していきます。
そして内なる神の指導により正しい瞑想ができる様になります。
そうなりますと、瞑想そのものが神であり、神そのものが心の中瞑想しています。
そこの境地までいきますと、瞑想しなくても二十四時間、四六時中、深い瞑想状態となり自動的に境地が上がり続けていき、あえて瞑想する必要がなくなります。
12◆効率の良い瞑想
瞑想していると伊豆神奈川辺りに大地震が起きるビジョンが出て来て、地震を回避する為の瞑想をしていた所、内側から貴方の瞑想はと効率が悪いと、場所を意識していませんかと云われました。
特定な場所を意識してる、これじゃあ無限のエネルギーを場所に限定して使っていると思い、この場所の地震は回避できても他にも数しれない震源地があるから、地震の事だけではなく全てに完全と意識し瞑想を続けたた所、これが完全瞑想と心の中心より私を通して伝わってきました。
地球、宇宙全ての波動を効率よく上げるには、そうだ地球初め宇宙全ての惑星、星の中心にある原子核を目覚めさせれば良いのではと思い、全ての原子核に意識して瞑想したところ、その宇宙全ての原子核から地球に向かって膨大な光エネルギーがヒーと言う様な音をたて地球に注がれ地上天国が出来上がっていくビジョンを観ました。
その膨大な光エネルギーが注がれた時に動物、草木も地球全て者がやったやったと踊り狂う様に喜び、万物の霊長(人間)がやったと再び喜んでいるビジョンも観ました。
鉱物、植物、空気等全ての自然界が人間を癒し、生きる命の手助けを無償の愛でしていた事に対して、その恩返しの様に万物の霊長(人間)から本当の愛のエネルギーが与えられ目覚めた事に感謝し大変喜んでいるビジョンも観ました。
以前瞑想中に全宇宙総力を上げてあなたに応援すると云われ、発信元は宇宙全ての原子核である事もそのその時解り、また
この地上天国の事だと想いました。
その地上天国は何時できるのかと主に聞いたのですが、その波動になった時だと云われました。
内側(神)のアカシックレコードに神の計画に地上天国がありますが、そこには時空は無く日時もないので、何年の何月に地上天国になると言う計画ではなく、その波動になった時に地上天国になっていくと理解しました。
神の計画にある以上、それを地上にに持ってくるだけなので、時空はないと言えども近い将来その波動になり、必ず実現すると私は確信しております。
1少し深い真理へ >2少し深い真理2 へ > 3真理を広める歩みへ > 4真理を広める歩み2へ >
5霊的エネルギー体験へ >6霊的エネルギー体験2へ > 7つぶや記へ > 8つぶ や記2へ> satoriページへ戻る